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クンバハカ解説

クンバハカ解説>>>2003 2005 
インターネットでクンバハカを検索すると花盛りですね。野球でもプロが生まれるにはそのすそ野としてのアマチュアの世界が花盛りではならないので、そういうことは良いことですね。続けていると彼らの中から何人かはいつか本当のクンバハカに気づくかも知れないから。キュッ!キュッ!とやっていれば、いつかは肛門を締めると肛門が絞まらないということが分かる日が来るかも知れないから。

「肛門を締めると肛門が絞まらないということが分かった」とある人が言ったそうです。「あ〜!分かってくれたか!」と私は嬉しい限りです。
肛門を締めたら肛門は絞まらないなんていうのは理屈では分からない話だから。クンバハカが分かるとそういうことも身体で分かるのです。

「今までキュッキュッとすることがクンバハカだと勘違いをしてました。歩きながらずーっとクンバハカでいられるんですね」と言った人がいます。
「何でも、アッと気づいてからクンバハカをしても遅いんです。常に自然クンバハカでいて始めて事に対してクンバハカで対応出来るんです」と私は応えました。

日向ぼっこ村の勉強会を通してそういうことが身体の感覚で分かって貰えて本当に嬉しいです。

以前にも書いたことがありますが王貞治氏の選手時代の一本足打法はクンバハカ態勢の完成と同質なんですね。そして監督として胴上げされた時に身体が真っ直ぐになっているのは常時クンバハカが出来ている証拠なんです。見てそういうことが分からなければクンバハカが分かっているとは言いがたい。イチローの打撃は限りなくクンバハカに近い態勢です。松井秀喜は広岡達郎氏からクンバハカを教えられてまだ充分身につけられていない状態ですね。

新しい自然クンバハカになる方法を4月に発見して日向ぼっこ村の昼食会で伝えていたが、だいたいみんな感覚を掴んでくれた。その後それを実践しているかどうかは分からないが。easy comming, easy going だから。先日曜、大阪の香里夏期特別研修会でみんなにやってもらったら多くの人がキョトンとしていた。何かを感じるという人は何人かいたが、今まで感じたことがないものだから、それが何だか分からないということかも知れない。また何も分からないという人も多かったかも知れない。本当のクンバハカの一部分でも経験が無いと、「なるほど、これはそうだ!」と分からない。そういう意味では、何か新しい感覚が得られたとき、それが何んであるかを理解するにはそれまでのベースが必要なんですね。そういう意味では私が常にいろんなヒントを伝えてきた日向ぼっこ村の村民は幸せだ。いつの間にかベースができている。ただ日常生活の中で常にそれを実践するかどうかは各本人の問題で私にはどうしようもない。日常生活の中でそれを真剣に実践しないといけないような深刻な人生問題が無いと継続しないのでその重要さが分からない。思いついたときにちょこっとやってもどうしようもない。

ちなみに天風会が教えるクンバハカは肛門を絞めるという筋肉を働かす動作をさせるので主に身体の表面にしか感覚が生まれないが、本当のクンバハカは身体の芯、肛門−臍下丹田−鳩尾という方向に気のエネルギーみたいなブリルというかプラーナというかそういうものが働くものですが、そういう知識や体験が無いと、身体の中で何か変化が起きると不安になるか意味不明、理解不能になってしまう。教える人が分かっていないとどうしようもない。山田務名先生にひつこく教わったことがそういう理解に大きく役立っている。本当に有り難いことです。肛門を絞めるという筋肉を働かすとクンバハカにならないと藤平光一氏が本の中に書いているが、それは本当です。しかし人は天風会で最初に教わったことが正しいというイメージが強すぎてなかなか価値観の変更が出来ない。「本当のクンバハカは難しくて教えられないので、とりあえず、肛門を絞めて、臍下丹田に気を込めて肩の力を抜くという簡易的な方法を教えている。この方法でもそれなりの効果があるからまずこれを毎日実践しろ。10年もやっていると本当のクンバハカが分かる日が来るかも知れないから」というのが正しい。ちなみに本当のクンバハカを会得した人はだいたい12年目が多いようです。

本当のクンバハカは、自分では何もしないのに肛門がクーッと絞め上がってきて、肩が身体の中に落ち込んでいくように力が抜け始めて臍下丹田に何か気のような固まりというほどでもないけど何か気の気体のボールみたいなのができ、これら三つの現象が同時に起きて、それから肛門か会陰か第一チャクラか分からないけれど、そういうところから湯のようなものが身体の中に上がってきて鳩尾ぐらいの場所までそのお湯で満たされる感じになります。(瓶に水が満たされるという表現ですね。)そして意識は生死を超越した感じに入ります。そこには生もなければ死もない。それは自分の中からすべての恐怖が消え失せた状態でもある。(すなわち霊体ですね。)だからこれはヨガのいうところのクンダリーニとは違うのです。その状態をいつでも再現するように、または近づけるようにする方法の模索ですね。その方法はいろいろあるだろうと思います。決してひとつだけがそれになる方法だということではない。

 

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