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2012年 よもやま話

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あいうえお

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KYOTO KAKIMOTO 恋文大賞(2011

「決意の日」父さんへ   角谷 千飛路(北海道 札幌市)

 「父さん、恥ずかしいから参観日に来ないで!」小学校最後の父親参観を拒んだときの、

 父さんの悲しそうな顔は、10年経った今でもぼくの脳裏に焼き付いています。

  ぼくは塗装職人の父さんを恥ずかしいと思っていました。ペンキだらけの服に、ガサ

 ガサの手、シンナーくさい車。そのすべてが大嫌いでした。

  ぼくが風邪をひいても、母さんと二人で現場に出て、朝早くから夜遅くまで、休みもなく働き続け、おまけに冬は出稼ぎで本州に行く。ぼくは寂しくて、父さんと母さんの苦労も知らず、自分勝手に反抗していました。自分のいたらなさを親のせいにして、家出もしました。あの日、「もう家には帰らねぇ!」と睨みつけたぼくに、「ちゃんと飯食っているのか。風邪ひいてないか」と、父さんは笑顔でした。殴られると思っていたぼくは拍子抜け。こぶしのやり場に困りました。

  父さんがすい臓がんで余命1ヶ月と告知された日も、ぼくは家に帰らず、遊び歩いていました。父さん、ごめんなさい。なぜ反抗したのか、自分でも理由がわかりません。

  父さん、会いたいです。話したいことがたくさんあります。孝行したいときには親はなし、と言いますが身に沁みます。高校の卒業式に、父さんからもらった三行の手紙は、ぼくの宝物です。

 「卒業おめでとう。父さんはペンキ屋の仕事に誇りを持っている。命を懸けている。千ヒロもそんな仕事に巡り合ってほしい。職業に貴賤なしだよ

  父さん、ありがとう。ぼくは薬剤師を目指して薬科大学に行きましたが、どうしても父さんの跡を継ぎたくて、大学をやめる決意をしました。父さんが死んでからは、母さんの仕事も激減し、抜け殻のようになっています。今日は父さんの命日です。

  ぼくの決意が正しいかどうかはわかりませんが、明日から母さんと一緒に現場に出ます。父さんの分まで、母さんに孝行するつもりです。父の志を 受け継ぐ心 素直に。 

 

  あなたへ  菅原 文子(宮城県 気仙沼市)

ひぐらしがうるさい位鳴いてます きょうは821日 日曜日

お盆を過ぎて街は静かになりました あなたが突然いなくなって5ヶ月と10

もう五ヶ月 まだ五ヶ月ととても複雑です あの日を忘れようにも忘れられない

東日本大震災が起きました あなたは迎えに行った私と手を取り合った瞬間

凄まじい勢いで波にのまれ私の目の前から消えました 一体何処へ行ってしまいましたか あの時から私の心はコンクリート詰めになり 山々が新緑に覆われても

桜が咲いても 何も感じる事ができず声を上げて泣くことすらも出来ずにおります

そして息子達も私も語り尽くせぬほどの様々なことがあって今日に至ります

突然いなくなったあなたに伝えたい事 聞いて貰いたい事が山ほどあって

心の整理もつかないけれど手紙を書く事にしました お店のこと心配してますか

お店はたくさんの方々の応援をいただいて23日仮店舗をオープンしました

13坪の土地に3坪のプレハブ テントをひと張り 混乱の中で息子達はほんとうに

よく頑張りました そのお店の真向かいには一軒家も借りる事が出来、家族五人で

暮らしています 全国の皆さんからはたくさんのご支援をいただいて そのうえ

素晴らしい方々とも出会うことが出来ました。

又私が書いたお酒の(負けねぇぞ気仙沼)のラベルがとても好評で多くの方々に

買って頂いています ある方に「これは旦那様が書かせてくれたのよ」と言われました

私もきっとそうだと思っています 何も言えずに別れてしまったから

ありがとうと伝えたくて切なくて悲しくてどうしようもないけれど

38年間一緒にいてくれて仲良くしてくれてほんとにありがとう

守ってくれて支えてくれてありがとう 感謝してます

これからはあなたが必死で守ってきた お店ののれんは私が息子達と守ります

大丈夫です あなたはきっと何処かで私達のことを見守ってくれているのでしょう

季節の巡りは早く、間もなくすず風が吹いて秋がやってきます

願わくは寒くなる前に雪の季節が来る前にお帰り下さい

何としても帰ってきて下さい 家族みんなで待っています 私はいつものように

お店で待っています 只々ひたすら あなたのお帰りをまっています

  菅原豊和 様へ    菅原文子より   平成23821日  

                     (スマイルニュース第56号C)

母とコロッケ               門倉清次郎

 あれは小学4年、夏休みのことである。もう50年もまえのことなのに今でも私はコロッケを見るたび母を想う・・。あのひるめし時、無言で耐えてくれた母の姿から、私は大きな教訓を学んだ。業界で「あいつは口の堅い男」と私を評価してくれる向きもある。だとすれば、母の教えが現在も生きているのである。

 戦前の食生活、それは貧しいの一語に尽きる粗食だった。カツ、コロッケ、バナナなど、いま常食になっているものさえめったに食卓にはのらなかった。麦飯に漬物、これが農村の年間メニュー。現代のヤングには理解しがたい一面であろう。貧乏だったわが家もそれ。私は、その日のことがあるまでコロッケに大きな願望を抱いていた。「一度でいいから食ってみたい」と。その日、私は街に用事のある母に連れられて一緒した。帰り道のこと肉屋の前にさしかかると、いい匂いが漂ってきた。見ると、コロッケを揚げている。

「かあちゃん、コロッケ買って!」私はほとんど衝動的にせがんだ。母は私をチラッと見ながら「そんなむだ遣いしたら、父っちゃんに叱られるじゃないか。さ、帰ろ」と私の手を引いて行きかけた。「いやだァ、一回でいいからコロッケが食いたいよ、かあちゃん」

 この声に母の足が停まった。私の顔をのぞき、その視線を店先へ移した。

「清次、そんなに食いたいのかい?」「うん。学校で食ったことのないのはオレだけなんだもの」「・・・・」母の思案している気持ちが、つないでいる手の温もりを通して私に伝わった。「コロッケなんか買ったら父っちゃんの雷が落ちるんだから。母ちゃんは知らないよ」

 そういう母だったが、足は、もう店頭へ歩きはじめていた。

 その日のひるめし時がきた。母と五人きょうだいが膳に就き、父も座りかけた。

私は、コロッケの食べられる幸福感と、起こるであろう父の怒りへの恐怖が入り交じって、体を堅くしながら食卓と父を見比べた。「なんだ、このお菜は!」膳を見るなり父の怒号が母へとんだ。食卓には、コロッケの盛られた皿と、漬物が山盛りの大ドンブリが並んでいる。

 私は反射的に母を見た。清次がうるさく言うから仕様なく、の母の言葉が当然出ると覚悟した。だが母は無言。うつむいたままだ。「・・・」

「何で考えなしの買い物をする! 目刺しでも買ったらよかったのに。こんなぜいたくをする銭は、うちにはねえ」父は声を荒げて母をなじった。うつむいたままの母が言った。

「いくら貧乏してたって、たまには他人様の子が食ってるもんくらいは食わして・・・」

 低声で語尾は聴きとれなかったが、私のことはおくびにも出さなかったようだ。父はなお、くどくど言い募ったが、その後の母は視線を膝に落とし、口をつぐんだままだった。

 途中から、私は母にむしゃぶりついていきたい衝動が、心いっぱいにあふれてきた。「かあちゃん、ありがとう」と。

 父の怒りもやっと静まり、皆、箸をとった。生まれて初めてコロッケのうまかったこと。

 あの味覚はいまも鮮明におぼえている。食事は終わった。「みんな、うまかったかい?」

 母は優しいまなざしで私らを眺めながら聞き、視線を私にとめて言った。

 「清次、うまかったろ!」母の目が、笑っていた。

 この小さな出来事は、単に忘れられないにとどまらなかった。私の成長につれ、出来事もまた心の奥で発酵し熟成し、現在、私の処世に欠くことのできない美酒となって芳香を放っている。(月刊『PHP19877月号)

 (『経営問答塾』鍵山秀三郎著、致知出版社発行より)

      (スマイルニュース第56号B)




子供たちへの遺書

 井村和清さんは1947年富山県生まれ。日本大学医学部卒業後、沖縄県立中部病院を経て、岸和田徳洲会病院に内科医として勤務。197711月、右膝に悪性腫瘍が発見され、右脚を切断。半年後に職場復帰したが、まもなく肺への転移が見つかる。自ら「余命6ヶ月」と診断し、懸命の闘病生活を送りつつ、死の1ヶ月前まで医療活動に従事。周囲の願いもむなしく、19791月、31歳で長女・飛鳥を遺し、次女・清子の誕生を目にすることなく逝去。不治の病に冒された青年医師が最後まで生きる勇気と優しさを失わず、わが子と妻、両親たちに向けて綴った感動の遺稿集から。

 

『ふたりの子供たちへ』

 心の優しい、思いやりのある子に育ちますように。悲しいことに、私はおまえたちが大きくなるまで待っていられない。私の右膝に発症した肉腫は、私が自分の片足を切断する手術を希望し、その手術が無事にすんだにもかかわらず、今度は肺へ転移した。肺の中で増殖しはじめたその肉腫は、懸命な治療に対してそれを嗤うかのように広がりつづけ、胸を圧迫し呼吸を苦しめる。もうあとどれだけも、私はおまえたちの傍にいてやれない。こんな小さなおまえたちを残していかねばならぬのかと思うと胸が砕けそうだ。

 いいかい。心の優しい、思いやりのある子に育ちなさい。そして、お母さんを大切にしてあげなさい。おまえたちを育てるために、お母さんはどんな苦労も厭わなかった。そして私にも、心を尽くして親切にしてくれた。父親がいなくても、胸を張って生きなさい。おまえたちのお祖母ちゃんは腎臓を悪くし片方の腎臓を摘出し、やがて聴覚も失い、音のない世界で病気と闘いながら、最後まで感謝の心をもち続け、ついに死ぬまで負けなかった。私も右足切断の手術を受けたけれども、負けなかった。これからは熱が出、咳きこみ、血を吐き、もっともっと苦しい思いをすると思うが、私は最後まで負けない。おまえたちの誇りとなれるよう、決して負けない。だからおまえたちも、これからどんな困難に遭うかもしれないが、負けないで、耐えぬきなさい。

 サン=テグジュペリが書いている。大切なものは、いつだって、目には見えない。人はとかく、目に見えるものだけで判断しようとするけど、目に見えているものは、いずれは消えてなくなる。いつまでも残るものは、目には見えないものなんだよ。人間は、死ねばそれで全てが無に帰する訳ではない。目には見えないが、私はいつまでも生きている。おまえたちと一緒に生きている。だから、私に逢いたくなる日がきたら、手を合わせなさい。そして、心で私を見つめてごらん。

 いま、私は熱がある。咳きこんで苦しい。けれども、腕が動くあいだに、書いておきたいことがある。これは私が父親としておまえたちに与えうる唯一の贈り物だ。お母さんを守ってあげなさい。ふたりの力で守ってあげれば、どんな苦労だって乗りこえられるよ。そしてもし、私が死んだあと、お母さんが淋しがっていたら、慰めてあげなさい。やがて、もしも、お母さんの淋しさを忘れさせてくれる人が現れたら、再婚させてあげなさい。人間はいつまでも独りでいるものではない。独りぼっちでいることほど悲しいことはない。

 私の父母、おまえたちのお祖父ちゃんお祖母ちゃんもまた、再婚して結ばれた人達だ。私の父も母も、その妻や夫に死に別れ、ひとりきりの毎日だった。ひとりぼっちでいた者同士がひとつになって、家の中に灯がともった。あんな苦しげだった父に明るさが蘇り、不安げに私たちの家にやって来た母も、幸福に充たされていった。こんなに良いことはない。思いやりのある子とは、まわりの人が悲しんでいれば共に悲しみ、よろこんでいる人がいれば、その人のために一緒によろこべる人のことだ。思いやりのある子は、まわりの人を幸せにする。まわりの人を幸せにする人は、まわりの人々によって、もっともっと幸せにされる、世界で一番幸せな人だ。だから、心の優しい、思いやりのある子に育って欲しい。それがわたしの祈りだ。さようなら。私はもう、いくらもおまえたちの傍にいてやれない。おまえたちが倒れても、手を貸してやることもできない。だから、倒れても倒れても自分の力で起きあがりなさい。さようなら。おまえたちがいつまでも、いつまでも幸せでありますように。

                         雪の降る夜に  父より

 

 井村さんが亡くなる1ヶ月まえに書いた詩

『あたりまえ』

 あたりまえ こんなすばらしいことを、みんなはなぜよろこばないのでしょう

 あたりまえであることを お父さんがいる お母さんがいる

 手が二本あって、足が二本ある 行きたいところへ自分で歩いてゆける

 手をのばせばなんでもとれる 音がきこえて声が出る

 こんなしあわせはあるでしょうか しかし、だれもそれをよろこばない

 あたりまえだ、と笑ってすます 食事がたべられる 夜になるとちゃんと眠れ、

 そして又朝がくる 空気をむねいっぱいにすえる 笑える、泣ける、叫ぶこともできる

 走りまわれる みんなあたりまえのこと こんなすばらしいことを

 みんなは決してよろこばない そのありがたさを知っているのは

 それを失くした人たちだけ なぜでしょう あたりまえ    井村和清(S54.1.1

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 井村和清の遺稿集「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」は昭和55年に出版されベストセラーになった。映画にもなり多くの人を感動させた。井村さんの妻・倫子さんは主人亡き後、故郷の沖縄に帰り薬局を経営しながら二人の娘を立派に育てあげた。今年長女は34歳、次女は32歳となった。遺稿集はいまも多くの人に読まれ感動の涙を誘っている。

 

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