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2010年 よもやま話

2010年12月
9.11の真相。私はこういうのを一日に7本も見る機会がありましたが、9.11テロは、私は最初からアメリカの自作自演・やらせと言っています。日本はアメリカ政府お抱えの学者・政治家と中国政府のお抱え政治家・ジャーナリストと大きく二分されますね。独自に分析・評論する能力と知恵と勇気が無い。アメリカからこういうのが出てきたから、肯定論も否定論もアメリカに追随しているだけ。
911の嘘をくずせ-ルースチェンジ2 完全字幕版 No.1
911の嘘をくずせ-ルースチェンジ2 完全字幕版 No.2
911の嘘をくずせ-ルースチェンジ2 完全字幕版 No.3
9.11テロ タワー崩壊の疑惑 1/5
9.11テロ タワー崩壊の疑惑 2/5
9.11テロ タワー崩壊の疑惑 3/5
2010年12月
今年、人から教えて貰ったユー・テューブです。クリックしてうまくいかない場合は、それぞれコピーをしてインターネットの検索アドレスの所に貼り付けてGOしてください。
http://www.youtube.com/watch?v=HotI93sRH9s&feature=related
http://www.takashimaya.co.jp/store/special/christmas/special/
http://www.youtube.com/watch?v=q-Vvrryisrg&feature=fvw
http://www.youtube.com/watch?v=bSPWihb4U5k&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=U0UD-pvBtxI&feature=player_embedded

1/6 http://www.youtube.com/watch?v=xn9w_pIXDhc&feature=related
2/6 http://www.youtube.com/watch?v=swefZtHoRSY
3/6 http://www.youtube.com/watch?v=5RvvN6GA36w&feature=related
4/6 http://www.youtube.com/watch?v=BN6WkpjiujA
5/6 http://www.youtube.com/watch?v=sWtxucA9iwo
6/6 http://www.youtube.com/watch?v=U1GRtSQS0qA

2010年8月
アメリカ帝国の隠された歴史 ジョン・パーキンス著
この本はアメリカ政府とアメリカ企業連合の合作により後進国や多くの国をいかに支配し搾取しているかという事実をかつてその当事者であった人間の懺悔による告白・暴露本です。
アメリカではベストセラーになっているが日本ではとても面白い内容にもかかわらず訳本が出てこないのは政治的な圧力があるように感じられます。
8/7の英語の勉強会で訳したところを8/8は暇だったので文章にしてみました。
EHMは「Economic Hit Man(経済的手法による国家暗殺という意味)」の略です。
(( ))の中は説明のために私が付け加えたものです。まあ、英語の専門家でない私の訳ですから読みづらいのはご容赦願います。
p206 
((著者がかつてEHMとしてイランのペルシャ湾沿いの小さな港町にたどり着いた時の話))
私はさらに歩みを進めた。意識的に歩幅を大きくした。私の決心の思いを伝えたかったから。そして力強く歩いた。彼からおそらく50フィートぐらいの距離で、彼もまた私の存在に不安になっていることに気づいた。そして歩くスピードを遅めた。
彼は咳払いをした。
私は立ち止まった。
そして彼は話しかけてきた。ペルシャ語かアラビア語みたいだが私には分からなかった。
「私にはあなたの言葉が理解できません。」ととてもゆっくりと英語で返した。
「アメリカ人?」と言葉が返ってきた。さらに言葉が続いた。
「あなたはアメリカ人でしょ?あなたの歩き方とアクセントで分かります。私は英語は十分話せます。」
「そうです。アメリカ人です。」と私は返事をした。
「私はトルコ人です。あなたのように旅行者で、ホテルに泊まっています。ちょっと話しませんか?」
私は彼に近づいて握手をした。彼の名前はネシムと言った。彼はたばこを吸いながら、「私は大学の歴史学の教授です。古代の交易ルートを研究していてイスタンブールからそのいくつかのルートをたどってここにたどり着きました。」
我々はしばらくイランの印象について語り合いました。彼はイランの独裁者であるシャー(王)に対する嫌悪感を隠そうとはしませんでした。これまでこの国の中でシャーの批判を聞くことはありませんでした。もちろん隠れたところでシャーを打ち倒そうという文章を見たことはありましたが、しかしすべてのイラン人はシャー政府のどこかの役人として働いていることを私は知っていました。しかしこの男は違っていました。彼は明らかに情報に精通していて彼の考えを述べるのに躊躇していませんでした。私が思うに彼は自分の意見を聞いてくれるアメリカ人が思いがけずこの波止場に現れたことを喜んでいるようでした。おそらく夜だったし波止場という場所でもあったし、私も旅行の疲れでもネシムの主張を聞くことに専念しました。
「みんなは独裁者の王に騙されているんだよ」と彼は言った。「まあ、みんなではないけど。あなたの国の大統領とその筋の人たちは分かっていると思っているけど。それは結局彼らの専門でもあるから。ごまかしだな。あなたの国のリーダーたちは帝国主義を隠している。さもなければ隠そうと努めている。そういうアメリカ人は自分達が得ているお金を隠している。人々を買収するためにしていることも隠している。そしてまた金持ちを守っている事実を隠しながら虐げられている人々を助けていると自慢している。」
彼はたばこを深く吸って言葉を続けた。「アメリカは仮面で隠された国だ」
アメリカを弁護するために、そして自分の仕事の正当性を主張するために何回も言い返そうとしたが沈黙を続けた。
1973年の第四次中東戦争について彼は聞いてきた。「なぜエジプトとシリアはイスラエルを攻撃したと思う?彼らは他に選択がなかったと感じたからからだよ。当時、多くのアメリカ人はイスラエルがアラブに対して行っている犯罪について情報を持っていなかった。それはアラブにとって脅威だった。言い換えればそれは実際はアメリカの戦争だった。イスラエルは単なるアメリカの手足だっただけだ。アメリカは、そこに住んでいる人々がイスラムの家と呼んでいる、そしてムスリムの永遠の土地であるパレスチナを盗んだだけでは満足せずにそれをユダヤ人に与えてしまった。そしてその後も土地をさらに奪い続けている。アメリカがユダヤ人の国を作っているとユダヤ人に信じさせるためにアメリカは多くの金を使っている。
アメリカはイスラム人の鼻を歴史の糞にこすりつけているようなものだ。
アメリカ人は民主主義のすばらしさを吹聴しているが、我々はアメリカのCIAがイランのモサド政権を倒したとき、あなた方の考える民主主義というものの実態を知った。
イスラエルは民主主義といえるようなものではないし、ヒトラーによって犠牲になった人々を守っているのでもない。アメリカはただ石油を得るために、理屈をこじつけ、嘘をつき盗んでいる。」
彼はたばこを持っている右手を胸に置いた。続けて言った。
「私はイスラエルのユダヤ人に同情している。本当にそうだ。私はパレスチナ人ではないからそういう同情ができる。しかしもし戦争になったら、もしトルコの中に彼らの考える国境を押しつけてきたら私は彼らを殺すだろう。しかし同時に彼らに同情する。彼らはアメリカの軍隊の前に置かれる羊みたいなものだから。盾だな。アメリカ人こそが責められるべきた。アメリカは石油を汲み出している間、ユダヤ人に彼らの家族を犠牲にするよう洗脳している。ユダヤ人はアメリカの番犬だ。アメリカはイスラエルに核弾頭を与え、我々の場所に我々ムスリムを閉じこめている。アメリカはイスラエルの軍隊を作っている。パレスチナ人は軍隊を持たない。ただ少しの愛国心があるだけだ。彼らは政府も住むべき土地も無い。
アメリカにとってイスラエルは中東を支配し石油を支配するための道具以外のなにものでもない。ユダヤ人にとって、それ((土地の永久所有))は夢だが、いずれそれが錯覚であるということが実証されるだろう。パレスチナ人には、今は立ち退くことを強制されているが、そこは彼らの祖国だ。アラブ人にとってはそこはアラブの土地の上に作られた敵の要塞だ。すべてのムスリムにとって、それは侮辱であり屈辱であり、我々がアメリカを憎む理由である。」

第38章 イラン・イラク戦争:もうひとつのEHMの勝利
あれから30年たってネシムのことを思い出すことになった。((上の出会いの会話から30年))
2004年の6月のある日の夜、私は中東の上をカタールに向かって飛んでいた。カタールは今回の旅の目的地であるネパールとチベットへ行くための乗り換え地である。カタールは30年前に行ったバッダル・アバスのペルシャ湾の真向かいにある。カタールについてはEHM時代ほとんど情報を持っていなかった。飛行機の窓を通してギリシャ、シリア、イラクそしてイランに落ちる夕日を見ていた。私は、長い冬の夜にオデッセイやアラビアンナイトや聖書を読んでくれた祖母のことを思い出した。飛行機はホーマーの冒険の島々を通り過ぎ、ノアの箱船が造られた山に向かって飛んでいた。我々は不思議な土地の上の空域を飛んでいた。そこはバビロンの吊り庭園、人類最初の都市、農園、そして最も古い書かれた文字が作られた場所。そこは車輪と現代数学が発明された場所でもある。
私が子供の時にわくわくしたライオン・ハートのリチャードによって攻められサラディンによって守られた要塞の物語を思い出した。そして私の思考はネシムを思い出すことになった。
彼の予言が現実になるのに時間はかからなかった。歴史的には一瞬の瞬きのような時間だった。
私自身、彼が欺瞞と述べた内容を公表する本を出版した。彼の言うイランの独裁者は倒れた。過激なムッラー((イスラム原理主義の指導者))に政権は変わった。イスラエルはますます好戦的になっている。そしてアメリカはイスラエルのすべての動きに支持をしている。パレスナ人は苦しみ、ビンラディンのように手製の爆弾を身につけた人々の個人の力を見せている。アメリカは知られていない多くの場所と少しの知られた場所、すなわちパナマ、ハイチ、スーダンでその残忍性を行っている。そして9.11とアフガニスタンとイラク戦争がやってきた。
この惑星において我々人類が我々自身を我々の兄弟姉妹を征服し殺戮するという押さえがたい欲望を切り離すことに長年において失敗してきた。そして血だらけの十字軍という歴史を過去へ追いやることもできないでいる。
私は疲れ果てた感じとともに、深い落胆によって打ち負かされた感じがしていた。
ステルス爆撃機が10年ちょっとで2回もイラクに侵攻した時、モスリムが新十字軍と呼ぶものをアメリカが送り出したのを全世界は見た。
ショックと恐れは軍隊の暴力を新しいレベルの恐怖へと押し上げたけれど、私の見方から見れば、アメリカが世界最大の石油生産地である中東の守護者として支配しようとする手段として単純に予想されたことだった。
支配するか、さもなければ破壊する。サダムはサウジアラビアにおける私自身のEHMとしての成功の結果からそれは避けられないことと知っていた。
1980年代を通してワシントンはサダムのイランとの戦争を支援していた。彼は、シャーを退位させたアッヤトッラーやテヘランのアメリカ大使館襲撃やアメリカ人の人質に対する屈辱に対するアメリカのイランに対する復讐の手先としてだけでなく、彼は世界で二番目に大きな石油埋蔵量の土地の上に座っているからであった。
EHMは彼を説得する試みをした。我々は彼に50億ドルを与え、ベクテル社はそれがイラン人やクルド人、反政府的シーア派を殺すことになることを知っていたサリンやマスタードガスを生産する化学工場を作ってやった。我々はジェット戦闘機や戦車や彼の軍隊を運用するために軍事訓練指導もした。そして我々はサウジとクェートに彼に500億ドルを貸すように圧力を加えた。
イラクにおいて進展する出来事を見ていると、私はしばしば私や二人のMAIN社の社員をケルマンからバッダルアバスまでエスコートしてくれたイラン人の技術者を思い出す。
「イラン人はアラブ人ではない。我々はペルシャ人でありアーリア人である」と彼は言っていた。「アラブは我々を脅かす。我々は100%アメリカの友人だ。」しかし突然歴史のテーブルは回転した。イラン人はアメリカにとって悪者になりサダムと呼ばれるアラブ人はアメリカの同盟者になった。
8年にわたるイラク・イラン戦争は最も長い戦争の一つになり、高くついた戦争でもあった。そして現代における残虐な歴史にもなった。1988年に終わるまでに100万人以上の人が死んだ。村も農場もそして両国の経済も荒廃した。しかしアメリカ企業連合体は別な勝利を得ていた。軍事産業とその契約人は見事に利益を得ていた。石油の価格は吊り上がった。EHMはサダムをアメリカがSAMA(サウジ金融庁)と結んでいるのと同じような契約を受け入れるよう説得した。それは私がサウジの王家と一緒に作る手助けをしたものであったが。彼らはサダムに帝国((この場合の帝国とはアメリカ政府とアメリカ企業連合による帝国という意味))の一員となるよう望んだ。
しかしサダムはそれを拒否した。もし彼がサウジのように受け入れていれば彼は更なる化学プラントの建設と十分な兵器を与えられると同時に彼の安全の保証をアメリカから得ていただろう。彼が独立の道を歩む決心を固くすることが明らかになったとき、ワシントンは暗殺者を送り出した。
サダムのような人間の暗殺には大抵そのボディガードと共謀して行う。私の知っているケースでは、エクアドルのロルドス、パナマのトリジョスがそうだった。彼らのボディガードはアメリカ合衆国スクールと呼ばれるところで訓練を受けている。サダムは暗殺者とその方法を熟知していた。彼は60年代にイラクのカシムを暗殺するためにCIAによって雇われ、80年代は同盟国として我々から多くのことを学んでいた。
彼はボディガードを厳しく選別した。そして彼は彼にそっくりな替え玉も用意した。
ボディガードは本当にサダム本人を守っているのか替え玉を守っているのか全く分からなかった。
暗殺は失敗した。そこで1991年にワシントンは最後の手段の選択のひとつを選んだ。最初のブッシュ大統領が軍隊を送った。この時点ではホワイトハウスはサダムを失脚させようとは思っていなかった。サダムはホワイトハウスが好むリーダーのタイプだったから。
国民を強力に支配でき、イランに対する抑止として役立つという理由で。
ペンタゴンはサダムの軍隊を破壊することでサダムを懲らしめることだけが目的だった。
EHMは90年代にまたサダムに働きかけた。しかし彼は我々の提案をまたもや受け入れなかった。そして再び暗殺者を送りだした。しかしまた失敗した。そこで二番目のブッシュ大統領は軍隊を展開した。サダムは退陣させられ処刑された。
イラクへの二度目の侵攻はイスラム活動家への強いシグナルでもあった。ホワイトハウスは9.11は単なる((イラクへの))侵攻を正当化するだけであることも、ハイジャッカーがサダムやイラクと関係が無いことは知っていた。
アメリカ政府はキリスト教の利権がアメリカの政治に強く影響を及ぼしていることは理解している。そしてイスラエル・ロビイストを協力させた。そして中東を征服し石油資源とその輸送ルートの支配を決定した。
アラブの反応は予想できた。イギリスのライオンハートのリチャード王からブッシュまでアラブは明確な二つの面を持っている。
1.ヨーロッパ人(今はアメリカ人)とは離れていたい。
2.俗人による民主主義の概念によるものよりはイスラム教を主体とした彼ら自身の形態の政府を作ること。
中東の人間は、それぞれのアラブ部族の土地の上に勝手に国境の線の線を引き、遠隔操作するためにヨーロッパ(アメリカ)贔屓の人間に王位をつかせたことを決して許さない。中世に((十字軍から))始まったその怒りは何世紀にわたって大きくなっている。
多くのアラブ人は、第二次大戦後の帝国主義は中世の十字軍と似た形でアメリカによって作られていると信じている。ネシムのような知識人の間では、イスラエルは苦しんでいる人々のための天国以上のものであると最初から思っている。((天国ではないという意味))
デイビッド ベン・グリオン首相が1948年5月14日に新国家誕生の宣言をしたとき、エジプト、イラク、レバノンはただちに攻撃した。


2010年8月
これはモンゴル在住のブログ作者がモンゴルのテレビを見ていると親しい場所と人が映っていることでたまたま見たテレビ・ドキュメンタリーの内容です。
なお、ツァータンとはトナカイ遊牧の北方少数民族のことです。以下そのモンゴル在住の日本人のブログから一部抜粋です。
【男の子は、いつも誰かと二人乗りで、奇声をあげています。
もう5−6歳ぐらいに見えたのですが、お父さんが馬を下りて歩いている時も肩車でくっついている。
最初は、足の悪い子なのかな?と思ったのですが、独りで走っているシーンもある。
ン?
ガイドと戯れているシーンもあったりするけれど、、、なんか変。
でもって、いろんな遊牧民のところやシャーマンのところを訪ね歩いていて、、、随分ゴージャスな家族旅行だねぇ、と思っていたら、(音声はモンゴル語がかぶっていたのですが、他の家事をしながら見てたので、あんまり聞いていなかった)、メンゲボラグが出てきて、ツァータンの登場。
ツァータンの登場の前に、立派な袋角をもった大きなトナカイの群が登場し、男の子はおおはしゃぎ!
モンゴル語の吹き替えは「大きな角を頭にもった動物がいるよ!」で、「幼稚園でもトナカイぐらいわかるんじゃね?」と思ってたんですね、私。
で、ついに、、、ツァータンのシャーマンの儀式があり、、、というところで、なつかしのゴスタおじさんです。もう10年以上会えてないのですが、ほとんど変わってませんでした。ちょっと白髪が増えたかな。
で、なぜゴスタさんがシャーマンの儀式をすることになったかが、ついに明らかになります。
この6才の男の子は、Autism、中国語だと「孤独病」、日本語だと「自閉症」を患っていたのでした。
で、この男の子は、ゴスタさんにすっかりなついてしまい、儀式が終わって、翌日、旅立つことがきまっても、「シャーマンのおじさんのところに残る。僕はここにのこる!」と駄々をこね、、、ゴスタさんが近付くと、ぎゅっと抱きつき、離れようとしません。グイグイ感がすんごいことになっているのですが、ゴスタさんは気にしてる様子はありませんでした。
ツァータンだけではないのですが、モンゴルの遊牧民にも、たまーに、いわゆる精神薄弱児というか、ちょっと他の子と違うの、、、という子や大人がいますが、誰もが普通に「あいつはそういう奴だから」と受け入れ、彼、または彼女ができる仕事をあたえ、コミュニティの中に溶け込んでいるので当たり前といえば当たり前なのですが、最近、タイガや草原の暮らしから遠ざかってしまい、ギスギスした異文化バトルでストレスたまり気味だったため、はっと心を打たれました。
別れる前に、ゴスタさんは、坊やに抱きつかれ、じゃれつかれている時に、そーっとそーっと手を坊やの頭から背中にかけてさするように、何かを取りだすかのような仕種をしていました。
「さぁ、これで坊やは2−3年の間によくなるよ。気をつけていきなさい」と坊やにキスの雨を受けながら、ゴスタさんは一家を見送りました。
そして、なんとママとパパがびっくり仰天、大喜びする出来事が次々と起こり始めます。
「坊やが独りでトイレができた!」
そして、フブスグル湖畔のツーリストキャンプでは、初対面のモンゴル人の子供たちと鬼ごっこ。
「同年代の子供たちと一緒に遊んでる!」
故郷に帰ってからは自宅で飼っている馬の世話をしたり、父子が仲良く裸馬で駆け回っていました。
シャーマンの奇跡としかいいようがないけれど、この奇跡を信じます!とパパとママの感激のインタビューも印象的でした。
旅自体は2007年の夏の出来事ですが、タイガは今も平和でのんびりと、皆が仲良く暮らしているんだと思います。
そして、心の平安と自然との交流が産む奇跡が日常的に起きている楽園なのです。
この番組、アメリカの作品で今もホームページから購入できます。
「The Horse boy」 http://www.horseboymovie.com/
ちなみに、この作品や書籍の売り上げの一部は、「The horse boy fund」として自閉症の子供たちのケアにかかわるサポートのために使われているそうです。】
2010年6月
モンゴル在住の日本人のブログにこんなのがありました。一部分をコピーしました。
【私がこの国(モンゴル)に来て一番感じるのは、日本人の強みは、金稼ぎではなく、真面目さ、献身的な行動、謙虚さだと改めて感じました。
中国や韓国がいくら発展しても、申し訳ないけどこういう部分はなかなか追いつけないのではないかと思っています。
なので、そういう日本人を代表できるような人物をこのモンゴルでもっとクローズアップさせたいと思うようになったのです。
残念ながら、そういう人は私の普段の生活からは見えません。日本企業駐在員とかこちらでビジネスを起こしている人、政府系職員などは、やっぱり古いイメージの日本人でしょう。そんな時に、日本人の友人のOさんからAさんのことを伺ったのです。
Aさんのキャラは、まさに私が思っていた「真面目さ、献身的な行動、謙虚さ」を兼ね備えた方だと思いました。
早速、この話をテレビ局の社長さんのUさんに電話で話しました。Uさんとは、私がテレビ出演でお世話になってから、何度か一緒にテレビの企画を考えたりしていました。
私が、なぜこういうことを考えたか、そして実際にそのイメージ通りの素晴らしい方がおられることを電話で話すと「わかりました。いいですね、その企画。やりましょう!」とその場で決まりました。
「いいですね、検討します」ではないところが、モンゴルの社長らしいところです。とにかく意思決定が速い。
その後、実際にOさんに紹介していただき私もAさんと直接会いました。「確かにこの方なら、素敵な日本人の代表としていいな」と思い、その後Uさんにも会ってもらって、番組化を正式に決定しました。
Aさんは日本で看護婦さんをやられていた方で、実績十分の優秀な看護師さんです。そんな方が、日本での給料の10分の1にも満たないことを承知でこの国へやって来て、しかも首都ではなく人口数千人の田舎町の病院で奮闘しておられます。
こちらでは、赤ちゃんが生まれても、日本に比べてのリスクは格段に大きいです。生まれる時の母子、生まれた後ももちろんリスクは続きます。
日本でならどんな田舎にも当たり前にある医療機器がないため、死んで行く子供を助けることができない場面も出てきます。
Aさんは、日々病院でそういう赤ちゃんや患者さんを助けるかたわら、機器不足をなんとかできないかと思っていました。
日本からの援助もあるにはありますが、それらは首都に配分され、こんな田舎町には来ないのだそうです。
彼女は、その田舎町で献身的に看護をするのみならず、日本にいる知人らに声をかけて、日本での募金活動を始めした。10万円の機器、100万円レベルの機器など、「最低必需品」はいくつかあります。
私は「その150万円くらいの機器は、日本ではどのくらいの値段なの?」「いやー、いろいろですよ。」「じゃあ、Aさんが実際に勤めていた病院の機器はいくらくらいでした?」「あれは、4千万円くらいでしょうか?」だそうです。(絶句)
日本で使っているものの20分の1以下の値段の物でもいいから欲しいという切実な願いです。
「なるほど、Aさんはいわゆるないものねだりなんかじゃなく、相当な現場感と危機感を持って募金を呼び掛けているんだな。」と感じました。
そんなAさんの撮影が、その田舎町で昨日と今日あったのです。そして先ほど「無事終わりました」というお電話を頂きました。
これからテレビ局の編集となるわけですが、実は両者の思惑は若干異なっています。私は、異なっているのを承知で両者にお願いしました。
テレビ局側は、実際にAさんに会って、「ヒューマンドキュメンタリー」的に作りたいと思っています。
当然でしょう。Aさんに会ってみれば、Aさん自身のキャリアや考え方、人柄などに対してもどんどん興味がわくことでしょう。私もその方向性がいいと思っていました。
ですが、謙虚なAさんは、自分を前面に出すことよりも、一人でも多くのモンゴル人に地域医療の問題を理解してほしいと願って、テレビに出る決意をしてくれました。
遠い日本人の募金にばかり頼ってられない、モンゴル人にも理解と協力を求めたいと願っているからです。
私は、このテレビが放映されることにより、私が当初描いていた狙い、テレビ局が伝えたいメッセージ、そしてAさんが願っている姿に、それぞれほんの少しでも近づけるきっかけになるのではと思っています。
放映日はまだ先ですが、反応がとても楽しみです。自分の時は「単にテレビに出る」程度の認識でしたが、今回はもっと「どんな反応があるのか」が楽しみです。
基本的にはこのブログではほとんど登場人物の名前は出していませんが、Aさんらがやっている募金に関心のある方は、是非下記のサイトを訪れてみてください。
http://egao-kansya-omoiyari.blogspot.com/2010_06_01_archive.html
この中の一連の「ハワリンバヤル」活動報告1−13をご覧ください。
よろしければ、コメントを書いてくだされば嬉しいです。もちろん、募金をしてくださればもっと嬉しいです。
多分、世界中には日本の貿易収支に貢献しているたくさんのビジネスパーソンと同じように、たくさんの草の根貢献をしている人たちがいるのでしょう。】

2010年3月02日
生まれて初めて本の著者に感想文を送りました。以下はその中の一部です。
『加治将一様
「舞い降りた天皇」の出雲の国譲りの部分において、鳥取県大山の中にある大神山神社については調査されていないのではないのでしょうか?されていても資料却下になっているのかも知れませんが。出雲大社は国を譲った後の神様の隠居所であり、その隠居前の現役の時は大神山神社にいました。出雲の秘密のすべては大神山神社にあります。神社年鑑などの本にはそのことは何も書かれていないと思います。そこにはその神社の一歩外では決して語られない、地元の人さえも知らないストーリがあります。
 10数年前にその神社をたまたま訪ねたとき、宮司さんかどうかは知りませんが、私の後ろから、「このあいだの戦争では・・・・」と話だし、このあいだの戦争と言えば太平洋戦争のことかと思いましたが、聞くと二千年前の戦争のことだと言いました。二千年前の戦争のことを「このあいだの戦争」とまるで昨日の戦争のように語り始めました。この神社は1万年以上続いている神社だそうです。もちろん建物は違いますが。そして天皇も将軍もこの神社をお参りするときは平伏してお参りするそうです。なにせ国譲りをさせて貰った神様ですから。
天皇Xも貴殿の本に書かれているのが本当のような気もしますが、また全体の流れもそうだろうと思いますが、私の疑問は日本では殺した相手の祟り封じのために神社を建てますがそのような文化や思想は朝鮮や秦には無いのではないでしょうか?いったいどこでそのような風習や思想が渡来人の中から生まれたのでしょうか?彼らにとってはまるで突然変異の感性です。
また玉爾はシナの文化であり、三種の神器は古代朝鮮の文化なのではないでしょうか?神器を持つ者は玉爾を持つ者の片腕である証だとして倭国へそれぞれの軍団として送り出した?
そして対馬や壱岐の人口を考えるとシャーマンを生み出す素質はある島なのかも知れませんが継続的に大きな力を提供するには人口が少なすぎます。島への継続的な人口供給があったと思われます。縄文末期、縄文人口は激減していたと読んだことがありますが、それが気候変動によるものだとすれば朝鮮半島も同じで各王族の子ども達へ分ける富が無くなり、シナの楽浪郡の次男と統括地の各王の次男達に「まだ国家の体を成していない倭国に渡り、おまえ達はおまえ達の国を作れ」と倭国に送り出した?
後に奈良や京都を都としたのは大きな盆地だからです。これは世界中ほぼ同じです。山に囲まれた大きな盆地は乾期があっても水が枯れることがない。奈良を選んだのは軍事的防衛のためでなく人口と農作物を常に安定的に維持・確保するためと思われます。
対馬や壱岐は朝鮮から倭国への侵入のための中継点ではなかったのだろうかと考えています。対馬や壱岐で一度態勢を整えて倭国へ入るための。朝鮮から一度にまとめて軍隊が船列を整えて真っ直ぐに北九州に入るのは難しいです。各船バラバラに入った場合、いくら鉄器の武器を持っているとしても各個撃破される可能性があり危険です。彼らは集団戦を戦術としていたはずですから。そして侵略準備として対馬や壱岐で縄文人の言葉や風習を学ぶことも要素ではなかったのかと。そして季節変わりの衣替えならぬ神様替えのようなこともあり得たのかもとも思います。対馬で朝鮮の神からアマテラスの神に乗り換える。
 21世紀に入って縄文系日本人と渡来人系(弥生系?)の魂の和解の時代に入っているような気がしています。10年ほど前に初めて伊勢神宮にお参りしたとき、伊勢神宮は縄文人に対する巨大な詐欺行為(プロパガンダ)の館・総本山のような気がしました。私はただの日本人の庶民なので神道や宗教は詳しくありませんが、なんとなく、そしてなぜか、「あ〜、私はここに和解のために来たのだ」と頭の中にイメージが湧いてきました。そしてなぜか伊勢神宮の近くにある猿田彦神社の方に心が引かれました。』                     
『追伸

国東半島に何故寺社が必要以上に多いのか?
それは寺社を建築することは当時の公共事業・失業対策だったからです。
都の町作りをしてインフラ整備して寺社を充分に建設して見栄えが良くなると町(都)に汗臭い肉体労働者は必要なくなる。
かといって彼らを放逐すれば強盗に夜盗に乞食になって都の品格が落ちる。
都の品格・品位を保つため肉体労働者を管理できる距離の山の向こうに追いやる。そこで甘言を並べて働かせる。「仏の御心をあまねく拡げるためにみんなの働きが必要だ」、「仏を作ったり寺社を建築することでみんなの魂は救われる」とか言って。そうして失業対策として彼らを安く働かせ続けた結果、国東半島はとても多くの寺社や岩仏が乱立することになった。もちろん職人の技の維持、育成、伝承という意味もあったのは間違いないと思いますが。そのために造り続けなくてはならない。技の維持と失業対策、それを山の向こうでやる。
滋賀県のお寺の数は京都よりも多く確か日本一だと思いますが、それもそういう理由ですね。京都の山の向こうの滋賀に労働者を追いやった。そして時々、必要数の労働者を呼び戻して京都のお寺の修理をしたりする。
お寺を建てると建てる人、木材を切り運ぶ人、食事の賄いをする人、その人達が寝る宿、その後、坊主が住み、参拝に来る人、その人達の宿や料理屋とお金が回転することになる。すなわちそれらは現代の道路工事であり箱物行政と同じですね。私は20代の半ばにこのことに気づきました。
その後にピラミッドの建設は公共事業だったという話が雑誌に出て世界どこも同じなんだと気づきました。もちろん寺社は戦時における侍の泊まり宿という役目も後知恵で利用することになりますが・・・。
以上、勝手ながら素人の発想を一筆させていただきました。』

2010年1月
(これは2001年3月6日、マイケル・ジャクソンがオックスフォード大学で講演した講演録です。インターネットからコピーしました。出典元http://slowly.org.uk/mj/index.html)
イントロダクション
愛されない子どもたちに手を差し伸べよう。大人は子どものことをもっと優先して考えよう―。これはマイケル・ジャクソンと、彼が社会に広めようと設立した「ヒール・ザ・キッズ」(Heal The Kids)の核となるメッセージである。この思いをより多くの人に伝えようと、マイケルはまず数々の講演活動を企画した。マイケルは、この団体をいっしょにはじめた友人、シュムリー・ボテツ師とともに、著名人や専門家たちを招き、教育問題について話し合った。これら一連の活動はニューヨークのカーネギーホールにはじまり、ネバーランド・ランチでの会議で幕を閉じた。2001年3月6日、古き伝統を持つイギリス・オックスフォード大学において、マイケル自身初となる講演は、そのハイライトを迎えた。

オックスフォード大学での講演(2001年3月6日)
みなさんの熱烈な歓迎に心から感謝します。オックスフォード大学の学長殿、本日はお招きいただき光栄に思います。そして、ここオックスフォード大学で11年間ラビとして従事しているシュムリー師に特別に感謝の意を表します。「ヒール・ザ・キッズ」をともに苦労して設立した彼とは、子どもらしさとは何か、という内容の本の共同執筆もしました。すべての活動を通じ、わたしを支えてくれているかけがえのない友人です。そして、「ヒール・ザ・キッズ」のディレクター、トバ・フリードマンにも感謝の意を表します。彼女はここオックスフォードの卒業生で、マーシャルの研究をしていたそうです。そして、もう一人の中心のメンバー、マリリン・ピールスにも感謝を表します。

以前、マザー・テレサ、アルバート・アインシュタイン、ロナルド・レーガン、ロバート・ケネディー、マルコムXといった著名な方々が講義されたこの会場で、これからお話できることを喜ばしく思います、セサミストリートのマペット、カエルのカーミットもこの場に立ったと聞いています。「ここに立つのに青いっていうのは大変なことさ(まだ青二才、未熟者なので)」というカーミットの気持ちがよくわかります。カーミットもわたしと同様、この場に上がるのに緊張したことでしょう。オックスフォード大学は偉大な哲学者や科学者だけでなく、JRR トールキン (「指輪物語」の作者)からCS ルイス (「ナルニア物語」の作者)に至る、才能に満ちあふれた著名な児童文学作家たちも送り出してきました。

今日、わたしはクライスト・チャーチ (Christ Church) のダイニングホールの中を歩き、ステンドグラスの窓に描かれたルイス・キャロルの不朽の名作「不思議の国のアリス」を鑑賞しました。子どもたちの大好きなアメリカの児童文学者ドクター・スースの絵もありました。彼は世界中の多くの子どもたちの想像力を養うすばらしい作品を生み続けています。まずわたしが、今夜みなさんの前でお話させていただけるようになったわけからはじめましょう。

わたしにはこのホールで講演してきた有名な方々のように、専門知識があるとは言えません。彼が、ムーンウォークの名手とは呼べないのと同じです。――中でもアインシュタインはとても下手だったと聞いています。しかし、わたしは人よりも、多くの場所へ赴き、いろいろな文化に触れてきました。人の知識は書物から得られたものだけでなく、心に描かれ、魂に彫り込まれ、精神に刻み込まれたものからつくられます。わたしは比較的短い間に、多くの体験をしてきたため自分がまだ42歳であるのが信じられません。時々シュムリーにも言うのですが、精神年齢は80歳には達していると思います――。今夜は80歳のように歩くことさえできます。ですから、今晩はわたしの話におつきあいください。今日ここでお話することが、人々の心、そして地球をもいやせるかもしれません。神の恵みによって、幸運にも、わたしは人生の早い時期にアーティストとして、プロとしてのたくさんの夢をかなえることができました、しかし皆さん、このような実績だけで、自分自身を語ることはできません。5歳の少年は観客の前で『ロッキン・ロビン』や『ベンのテーマ』を元気に歌っていましたが、実際、笑顔の裏側にある少年の本当の心を表してはいなかったのです。

今夜わたしは、ポップの聖像(この意味はともかく)としてでなく、同世代、つまりもう子どもではない世代の聖像として、ここに立っています。私たちはみな、幼児期の産物です。子ども時代は、人格形成に大きく影響します。でも、わたしにはすばらしい子ども時代はありませんでした。両親や周りの大人からの愛情を一身に浴び、最大の心配事といえば月曜日の朝のスペリングテストしかないような、夢中になって遊べるはずの貴重な時期を過ごさずに来てしまいました。

ジャクソン・ファイブをご存じの方は、わたしが若干5歳という年齢でデビューしたことをご存じでしょう。それ以来、歌い、踊り続けています。ステージに立っている時や音楽を作り出している時は確かに大きな喜びで満たされていましたが、小さいころのわたしはそれよりも何よりも普通の少年でいたかったのです。木の上に家を作ったり、水風船をぶつけっこしたり、友だちとかくれんぼしたりしたかったのです。

でも、これはわたしの運命で、周りで遊んでいる子どもたちの笑い声をうらやむことしかできませんでした。わたしのプロとしての人生に、息抜きなどありませんでした。でも、毎週日曜日、「エホバの証人」の行うパイオニアリングと呼ばれる布教活動に通ったものです。ほかの子どもたちがどう過ごしているのかを間近に見て、子ども時代の魅力を知ったのはその時でした。わたしはすでに顔が知れわたっていましたから、大きめの服、かつら、あごひげ、眼鏡で変装し、南カリフォルニアの郊外で家を一軒一軒訪ねたり、ショッピングモールを歩き回ったりして、『ものみの塔』という機関誌を配布しました。わたしは普通の家を訪ね、ふかふかのラグやアームチェアの上で、子どもたちがモノポリーゲームをして遊んだり、おばあちゃんが孫を面倒を見たりするような日常生活のすばらしく平凡な、輝く光景を見るのが大好きでした。そんなたいしたことじゃないじゃないか、と思われるのは知っています。でも、わたしにとっては、とても魅力的なことでした。普通の子ども時代を過ごしてこなかったのは自分だけだと思ったものです。この思いをわかってくれるのは、実際ほんの一握りの人だけだと信じていました。

最近、シャーリー・テンプル・ブラックにお会いしました。1930、40年代に活躍した子役スターです。最初はお互い言葉を交わしませんでした。ただいっしょに涙を流しました。シャーリーはごく親しい友人、エリザベス・テイラーやマコーレ・カルキンにしかわからないような心の痛みをわかってくれたのです。みなさんの同情を買うために、この話をしたのではありません。わたしが言いたいのは、子どもらしくない幼児期を過ごしているのは、ハリウッドの子役たちだけではないということです。今日、それは世界共通の不幸であり、世界的規模の悲劇です。現代では、子ども時代が悲惨な状況になってきているのです。喜びを感じたことのない、権利を与えられない、自由を許されない、子どもらしさを知らないたくさんの子どもたちが生み出されているのです。

今日、子どもたちは早く大人になることを求められます。子ども時代と言われるこの期間がつらい段階であるかのように我慢し、できるだけ速やかに通過することを求められます。この点に関しては、わたしも専門家と名乗れるくらいの経験があります。わたしたちは、親子関係の断絶を目の当たりに見てきた世代です。心理学者は、無償の愛を与えられない子どもたちがどうなるのかを扱った多数の本を出しています。無償の愛を注がれず、放っておかれるために、実に多くの子どもたちが、自らの力だけで成長していかなくてはならないのです。

かつて世代間を結びつけた強力なのりがはがれるように、愛を与えられない子どもたちは、両親、祖父母、ほかの家族たちから距離を取りつつ成長しています。こうして、新しい世代――O世代と呼びましょうか――が生み出されました。O世代はX世代から、バトンを受け取りました。O世代は富も成功も、きれいな服も、かっこいい車もすべて手に入りますが、心はやるせなさで満ちた世代です。彼らの胸の空洞、心の底に広がる荒野、中心にぽっかりあいた空間も、かつては鼓動や愛で満たされていたはずです。そして、苦しんでいるのは子どもだけではありません。大人も同じです。子どもの体をした小さな大人を育てようと努力すればするほど、大人の中の子どもらしさも失われていきます。大人の生活にも、子ども的な部分を必要とする場合がたくさんあるのです。

みなさん、愛は家族にとって、最も貴重な財産であり、豊かな遺産であり、黄金の贈り物です。世代から世代へと受け継がれていく宝です。昔の人たちには、今わたしたちが手にしているような豊かさはなかったかもしれません。家には電気も通らず、セントラルヒーティングのない小さな家にたくさんの子どもたちがひしめきあって暮らしていたことでしょう。しかし、家は暗くも寒くもありませんでした。愛の輝きで部屋をともし、温かい心で部屋を暖めました。富や地位という欲に毒されていない大人たちは、生活の中で子どもたちのことを最優先に考えたのです。

みなさんご存じのように、イギリスとアメリカは、第3代大統領トーマス・ジェファーソンの起草した独立宣言の「譲渡され得ない権利」――生命・自由・幸福の追求――をめぐり争っていました。2カ国がジェファーソン大統領の主張をめぐり争う中、子どもたちにも「譲渡され得ない権利」があるということは論議されなかったのです。これらの権利が徐々にむしばまれていけば、世界中の子どもたちの多くが、幸福や安全を享受できなくなります。そこで、すべての家庭に児童権利法案が取り入れられることを強く望みます。条項を挙げると、

愛される権利。自ら求めずとも。   
守られる権利。どんなことがあっても。   
かけがえのない存在だと感じられる権利。何も持たずにこの世に生を受けようとも。   
話を聞いてもらえる権利。大人にはおもしろくない話でも。   
寝る前に読み聞かせをしてもらえる権利。夕方のニュースや、『イースト・エンダー』(イギリスの家族ドラマ)に時間を取られることなく。   
教育を受ける権利。学校で銃弾におびえることなく。   
かわいがられる対象となる権利 (たとえ平凡な外見だとしても)。
どの人も、自分が愛される対象であると実感することが、認識の土台、つまり意識のはじまりなのです。髪の色が赤か茶色かを知る以前に、肌の色が黒か白かを知る以前に、どんな宗教に属しているかを知る以前に、自分が愛されていることを実感できなくてはならないのです。12年ほど前、『バッド』ツアーをはじめようとしたころ、一人の少年が両親とともに、カリフォルニアの自宅を訪ねてきました。その少年はガンのため、死期が近づいていました。わたしの音楽、そしてわたしのことがどんなに好きかを語ってくれました。

少年が長くは生きられず、今すぐにでも天国に召される可能性があることを、彼の両親から聞き、わたしは彼に言いました。「ねえ、3 カ月後、君の住んでいるカンザスでコンサートをするよ。見に来てほしい。さあ、ビデオで着たこのジャケットを君にあげよう」。少年は目を輝かせて言いました。「ぼくにくれるの」。わたしは答えました。「そうだよ。でも、ツアーの時、着てくるって約束して」。わたしは少年を持ちこたえさせようとしていたのです。「ツアーの時、君がこのジャケットを着て、この手袋をはめている姿を見たいんだ」。そうわたしは言い、ラインストーンの手袋を少年にあげました。――以来、ラインストーンの手袋は二度と人にあげていません。

少年は今天国にいます。おそらく、ずっと天国に近いところにいたのでしょう。わたしがカンザスに行った時には、すでに亡くなっていました。あの手袋とジャケットを身に付けて、葬られたそうです。少年はちょうど10歳でした。少年が持ちこたえようとベストを尽くしたことは間違いありません。彼が亡くなった時、両親からだけでなく、血のつながりのないわたしからも、自分が愛されたことを実感していたことだけは確かです。わたしは彼のことが大好きでした。愛情をいっぱいに受けたことで「自分がこの世にたった一人で現れ、たった一人で去っていったのではない……」と思っていることでしょう。愛されている実感をもってこの世に生を受け、愛されている実感をもってこの世から去るなら、生きている間に起こるすべてを乗り越えられるのです。

たとえ教授に中傷されたとしても、そう感じないでしょう。上司にしいたげられようとも、へこたれないでしょう。会社の同僚に打ち負かされたとしても、成功の喜びを感じられるでしょう。

愛情を受けて育ってきた人を、心から傷つけることはできません。自分が愛される価値のある人間だという実感をもっているからです。それ以外の感情はただの包み紙のようなものです。

しかし、愛された記憶がなければ、心を満たすものを求め、世界中を探し回るようになります。

どんなにお金を稼ごうとも、どんなに有名になろうとも、まだ虚しさを感じることでしょう。

本当に探し求めているのは、無償の愛、つまりは無条件に受け入れられることです。生まれた時に、享受できなかったものなのです。

想像してみてください。ここにアメリカの典型的な1日の特徴を示すデータがあります。――6人の未成年が自殺をし、12人が銃の犠牲になっています――いいですか、これは1日当たりの数字で、年間の数ではありません。399人の子どもたちが薬物中毒で逮捕され、1,352人の赤ちゃんが10代の母親から産まれています。

これは歴史的に見ても非常に豊かな先進国で起きていることです。実際アメリカでは、ほかの先進国と比較にならないほどの暴力行為が多発しています。アメリカの若者が、心の傷や怒りを表現する方法なのです。しかし、イギリスの若者の間に、同じ痛みや苦しみがないわけではありません。調査によると、イギリスでは、1時間に3人の未成年者が、自虐行為――自ら体を傷つけたり、自らやけどをしたり、薬物を過剰に服用したり――をしているそうです。こうして彼らは、愛されない心の痛みや苦しみを乗り越えようとしているのです。イギリスでは、1年に一度しか、家族そろって夕食をとれない家庭が20%もあるそうです。1年にたったの一度ですよ!

寝る前の本の読み聞かせという貴重な時間を大切にしていますか。1980年以降の調査によると、読み聞かせをしてもらっている子どもたちは優れた教養を身につけ、学校でもいい成績を修めています。しかし、イギリスの2歳から8歳の子どものうち、毎晩本を読み聞かせてもらっているのは33%にも満たないそうです。今の親たちが子どものころには、75%が本を読み聞かせてもらっていたことを考えると、もっと深刻にとらえなくてはならないでしょう。

この心の痛み、怒り、暴力行為の原因は探るまでもありません。子どもたちは明らかに、愛してほしいと訴え、関心をもたれないことに体を震わせ、注目してほしいと叫び声をあげているのです。アメリカの様々な児童保護機関によると、毎年何百万人もの子どもたちが、放っておかれるという形の虐待の犠牲になっているそうです。

放っておかれるという形の虐待。あらゆる電化製品を完璧に備えた裕福な名声のある家庭の中で起こっています。両親が帰宅する。でも、本当にうちに帰ってきたのではない。頭の中はまだ仕事場にある。じゃあ、子どもたちは?与えられた感情のかけらで間に合わせているだけ。そして絶え間なく流れるテレビ、コンピュータ・ゲーム、ビデオから得るものは少ない。なぜわたしが自分の時間や財産の多くを「ヒール・ザ・キッズ」の活動をはじめるために費やすことにしたのか、おわかりでしょう。わたしは統計の示す悲しい数字に、魂をもぎ取られ、精神を揺さぶられたのです。私たちの活動の目標は単純です。――親子の絆を取り戻し、関係を修復し、地球の将来を担うすべての子どもたちの進む道を明るく照らすことなのです。

わたしは、今日初めて公に講演をしています。みなさんに温かく受け入れられ、さらに話をしたいという気持ちになりました。人にはそれぞれ事情があり、その意味で、統計データが独特の意味をもつこともあります。子育てはダンスのようだと言われます。親が足を一歩踏み出すと、子どもも足を踏み出す。ですから、親が子どもたちのために再び愛を捧げるだけでは、まだ半分しか意味がないのです。子どもの側にも親を再び受け入れるよう準備しなくてはならないのです。

小さいころ、ブラックガールという名の犬を飼っていました。オオカミとレトリーバーの混血です。ブラックガールは番犬としての役目を果たさないばかりか、とても臆病で神経質で、大きな音を立てるトラックや、インディアナ州を通過する雷にもおびえていました。妹のジャネットとわたしは、ブラックガールをとてもかわいがりましたが、前の飼い主によって奪われた信頼感を取り戻すことはついにできませんでした。前の飼い主がブラックガールを虐待していたことを知っていましたが何をしたかはよくわかりません。でも何をしていようと、それが原因でブラックガールが健やかな心を失ったのは確かです。今日、多くの子どもたちは愛に飢えた子犬のようです。そのような子どもたちは親のことを考えようとしません。そのままにしておくと、独立心おう盛な子どもに育ちます。親元から離れ、去っていきます。ひどい場合は、親に恨みや怒りを抱き、その結果、親は自分のまいた種で、自らの首を絞めることになるでしょう。

このような過ちは今日ここにいるだれにもおかして欲しくありません。ですから、自分が愛されていないと感じても親を許すよう、世界中の子どもたちに呼びかけているのです。今日ここにいる人からはじめましょう。許してあげてください。もう一度愛する方法を親たちに教えてあげてください。わたしにはのんびりとした子ども時代がなかったと聞いて、驚く人はいないでしょう。父とわたしとの間の重圧や緊張は、よく取り上げられます。父は厳しい人で、小さいころから私たち兄弟がすばらしいアーティストになるよう強要しました。父は愛情を示すのが苦手で、まともに愛していると言われたことは一度もありませんし、褒められたこともありません。ステージで成功をおさめても、まあまあだとしか言ってくれませんでした。

そしてまあまあのステージなら、父は何も言いませんでした。父は何も増して、わたしたちが仕事上成功することを望んでいるように思われました。その点における父の力はずば抜けたものでした。父にはマネージメントの才能があり、そのおかげで、わたしたち兄弟はプロとして成功しました。芸能人として訓練され、わたしは父の指導のもと、敷かれたレールから足を踏み外すことはできませんでした。

でもわたしが本当に欲しかったのは、「お父さん」です。自分を愛してくれる父親がほしかったんです。父は愛情を示してくれたことがありませんでした。目をまっすぐ見つめ好きだと言ってくれたことも、いっしょにゲームをしてくれたこともありませんでした。肩車をしてくれたことも、まくら投げをして遊んだことも、水風船をぶつけあったこともありません。でも、4歳のころ、小さなカーニバルで、父が私を抱き上げ、ポニーに乗せてくれたという記憶があります。それはちょっとしたしぐさで、おそらく5分後には、父は忘れてしまったことでしょう。しかし、その瞬間、わたしの心の特別な場所に、父への思いが焼き付けられました。子どもとはそんなもので、ちょっとした出来事がとても大きな意味をもつのです。わたしにとっても、あの一瞬がすべてとなりました。たった一回の経験でしたが、父に対して、そしてこの世の中に対していい思いを抱いたのです。

自分自身が父親となり、ある日わたしは、我が子プリンスとパリスが大きくなった時、自分がどう思われたいと考えているのか、自問しました。もちろん、自分の行くところにはいつも子どもたちを連れて行きたいし、何よりも子どもたちを優先していることを、わかってほしいと思います。しかし、あの子たちの人生に困難がつきまとっているのも事実です。パパラッチに追いかけられるので、公園や映画館にいつも一緒に行けるわけではありません。あの子たちが大きくなって、わたしを恨んだら?わたしの選んだ道があの子たちにどんな影響を与えるのでしょう?

どうして僕たちには普通の子ども時代がなかったの、と聞くでしょうか。その時、子どもたちがいい方向に解釈してくれるといいと思います。「あの特殊な状況の中で、父さんはできるだけのことをしてくれた。父さんは完璧ではなかったけど、温かで、まあまあで、ぼくたちを愛する努力をしてくれた」とあの子たちが心の中でつぶやいてくれるといいなと思うのです。

あの子たちが、あきらめざるを得なかったこと、わたしのおかした過ち、子育てを通じてこれからおかすだろう過ちを批判するのでなく、いい面、つまりわたしがあの子たちのために喜んで犠牲を払ったことに、目を向けてくれればいいと思います。 わたしたちはみな人の子で、綿密な計画を立て、努力をしても、常に過ちをおかしてしまうものなのです。それが人間なのです。このことを考える時、つまり、どんなにわたしがあの子たちに厳しく評価されたくない、いたらない面を見逃してほしいかを考える時、わたしは父のことを思わずにいられません。 子どものころ、愛されたという実感はないけれど、父がわたしを愛してくれていたに違いないと認めざるを得ないのです。父はわたしを愛し、わたしにはそれがわかっていた。愛情を示してくれたことは、ほとんどなかったけれど。

子どものころ、わたしは甘いものに目がありませんでした。 ―兄弟みんなそうでした。シロップに覆われたドーナツが大好物で、父はそのことを知っていました。数週間に一度、朝1階に下りて行くと、紙袋に詰め込まれたドーナツがキッチンカウンターに置いてあったんです ―メモも説明もなく― ドーナツだけが置いてありました。まるでサンタクロースみたいでした。 夜中まで起きていて、ドーナツが置かれるところをみようと思うこともありました。 でも、サンタクロースと同じように、二度とドーナツが置かれなくなることを恐れ、その魔法を大切にしようと思いました。父はだれかに見られないように、夜中にこっそり置かなければなりませんでした。 父は自分の中の人間的な感情におびえ、それを理解できず、どうしていいかわからなかったのです。しかし、ドーナツの件ではわかっていたようです。心の防波堤の扉を開けたままにすると、わたしの心に様々な記憶が走馬灯のようによみがえってきます。 ちょっとしたことで完全ではありませんが、その記憶は ゛父ができることをしてくれた゛ ということです。そこで今日これからは、父がしてくれなかったことに目を向けるのでなく、父がしてくれたこと、父の努力に目を向けようと思います。 そして、父を非難するのをやめようと思います。わたしは父が南部の貧しい家庭で育ったという事実に思いをはせるようになりました。

父は世界大恐慌の年に、この世に生を受けました。 わたしの祖父は家族を養うのに精いっぱいで、ほとんど愛情をしめすこともなく、子どもたちを厳しく育てました。 アメリカ南部で貧しい黒人が大人になっていくということが、みなさんにはどういうことか想像もつかないでしょう。人間としての尊厳を奪われ、望みを失い、身分の低い者として見られる世の中で、一人前になるようもがくことなのです。わたしはMTVで最初に歌った黒人アーティストです。当時でさえ、大きな出来事だったと記憶しています。それが80年代のことです。

父はインディアナ州に引っ越し、所帯をもち、たくさんの子どもたちに恵まれました。家族を養うため、製鋼所で長時間働きました。それは、肺を痛めつけ、屈辱的な気持ちにさせるような仕事でした。父が自分の感情をさらけだせなかったのも、無理もないことでした。心をかたくなにし、壁でふさいだとしても何の不思議もありませんでした。そして何よりも、自分が経験した屈辱的人生や貧困を子どもたちに味わわせないように、子どもたちが芸能人として成功するように強要したのも、当然のことでした。父の厳しさはひとつの愛情の表れだった。完璧ではないけれど確かに愛だと、わたしは感じはじめるようになったのです。

父はわたしを愛しているから、強引に背を押したのです。自分の血を分けた子どもたちが低く見られるのは嫌だったのです。時とともに、苦痛は、感謝の気持ちへ変わっていきました。怒りを感じていたところも、許せるようになってきました。復しゅうしたいと思っていたところも、折り合いをつけられるようになりました。はじめに感じていた怒りは寛容さへとゆっくり変わっていきました。10 年前になりますが、わたしは「ヒール・ザ・ワールド」(Heal the World)というチャリティー活動をはじめました。わたしは心で感じたことを、その名に託しました。よく知らなかったのですが、のちにシュムリーから、HealとWorldという単語は旧約聖書の預言の基盤となっていることを聞きました。みなさん、わたしがこの世界を、今日でさえ戦争と大虐殺に翻ろうされている世界を、本当にいやせると信じているとお思いですか?

わたしが子どもたちを本当にいやせると考えているとお思いですか?コロンバインハイスクールで起きたように、銃を持って学校へ行き、クラスメートを撃ち殺してしまうような子どもたちをいやせると考えているとお思いですか?1993年に2歳で殺害されたジェイミ・バルジャーの悲劇のように、自らを守れない幼児を殴って死に至らしめるような子どもたちをいやせると考えているとお思いですか? ―わたしはもちろん、そう思っています。そうでなければ、今晩ここに来ていないでしょう。すべては許すことからはじまるのです。世界をいやすためには、まず自分自身をいやさなくてはならないからです。子どもたちをいやすためには、まず子どもたちの心の中をいやさなくてはなりません。どの子どもたちも同じです。

わたしは、このままでは完璧な大人にも、無償の愛を与えられる親にもなり得ないことがわかり、子ども時代のつらい記憶の扉を閉めました。みなさんにも、そうしてほしいのです。モーゼの十戒、第五の戒律(あなたの父と母を敬え)にふさわしい生き方をしましょう。親を非難するのではなく、尊敬しましょう。物事をいい方向に考えましょう。だから、私は父を許し、父を非難するのをやめようと思うのです。父を許したい。「お父さん」をほしいから。結局わたしには彼しかいないのです。わたしは過去の重荷を肩から降ろし、父との新しい関係を踏み出したいのです。過去のつらい記憶に邪魔されず、未来を築きたいのです。憎しみに満ちた世界でも、望みをもたなければなりません。

怒りに満ちた世界でも、慰めの心をもたなくてはなりません。絶望に満ちた世界でも、夢を忘れてはなりません。不信感に満ちた世界でも、信じなくてはなりません。親から傷つけられたと感じていらっしゃるみなさん、失望感を捨ててください。親にあざむかれたとお思いのみなさん、これ以上自分自身をあざむくのはやめましょう。親が邪魔だと思っているみなさん、代わりに手を差し出してください。ご両親に無償の愛を与えてください。これは、みなさんに望むことであり、自分自身に言い聞かせていることでもあります。そうすれば、親たちはわたしたち子どもから愛し方を学ぶことでしょう。そうすれば、荒れ果てた寂しい世の中に、愛が取り戻されるでしょう。シュムリーが「子どもたちの心を通じて両親の心が取り戻される時、新しい世界、新しい時代が来るだろう」という旧約聖書の預言を話してくれたことがありました。

みなさん、わたしたちがこのような世界をつくっているのです。 わたしたちがその世界に住む子どもたちなのです。インド建国の父マハトマ・ガンジーが言いました。 「弱者は人を許すことができない。許すことは強さの裏返しである」 さあ、強くなりましょう。そして、壊れた関係を修復するために、立ち上がりましょう。子ども時代に受けた傷が人生にどんな影響を与えようとも、乗り越えなければなりません。ジェシー・ジャクソン(民主党候補として大統領選に出馬した黒人牧師)の言葉にあるよう、互いに許し合い、互いに助け合い、そして前へ進みましょう。許し合うことだけでは、涙に暮れる世の中は終わらないかもしれません。しかし、多くの子どもたちが親との関係を修復することが、少なくとも新たな出発点となるのです。結果として、わたしたちみんな、もっと幸せになるでしょう。みなさん、信仰、喜び、興奮をもって、わたしの話を締めくくりたいと思います。

今日から、新しい歌が聞こえてきますように。
その歌を子どもたちの笑い声に。
その歌を子どもたちの遊ぶ声に。
その歌を子どもたちの歌声にしよう。
そして、大人たちは耳を傾けよう。

子どもたちのもつ力に驚き、愛の美しさに浸り、ともに、心のシンフォニーを創りだそう。

世界をいやし、痛みを取り去ろう。そして、ともにみんなで美しいメロディーを奏でられますように。

神の恵みがありますように。“I love you”。


2010年1月
 昨年の暮れ、日本の町並みを電車の中から観察していて次のことに気づきました。
 日本の町並みを見ていて昔から「どうして日本人は家やビルを建てるとき隣や全体と調和したデザインにしないのだろう?それぞれが勝手にデザインして全体の調和は全く無い」と。新宿の高層ビル群なんてその典型ですよね。それぞれがバラバラ勝手な設計で調和も何もない。住宅街もそうですね。それぞれが勝手な形の家を建てている。ヨーロッパの町並みは調和している。そういうふうにずーと思ってきました。
 そして一眼レフ・デジカメに不便なマクロ・レンズを取り付けて見る枠で町並みを見ているとどこにでも芸術を見ることが出来るという話は書きました。そしてずーと町並みを見ていて気づきました。日本の自然の森は温帯性樹林ですね。もっと簡単に言うと雑木林。雑木林は生成発展しているかどうかは知りませんが常に生成変化している。雑木林の中の狭い区域を見てもその中に本当に多くの草や低木に高木が雑然と育っている。西洋や北欧は針葉樹林帯で種類の少ない針葉樹木がほぼ一定の間隔で育って雑木や雑草の種類は少ないかほとんど無い。そこに住む人間の町並み作りもそれと同じではないかと。雑木林の育つ所に住む人間は雑木林的町並みを作り、針葉樹林帯に住む人間はその森と相似形の町並みを作るのではないかと。日本で西洋的に整然とした計画的町並みで住むのは落ち着かない。だから計画的に作られた高島平の高層アパート群や筑波の大学・研究施設街では自殺率が高く町作りの失敗作だと言われている。西洋的合理思想の理屈では理解出来ないのだけれど日本人は雑木林的町並みに住むことでどこか心が落ち着くようになっているのではないでしょうか。
 雑木林が常に変化しているように日本の町並みも常に変化している。気がついたらいつの間にか大きく変わっていることがある。針葉樹林の森の形には変化が少ないのでヨーロッパ人は町並みを変えようとしない。戦争で破壊された町並みを戦前と全く同じ形で復活させようとする。日本人は戦争で破壊されたらまったく新しい形の家やビルを建てる。要するに人間も自然の中の一部なのでそこの自然と相似形の町並みを作るということですね。雑木林の手入れも人間の自然の中の役割かも?インドネシアなどは熱帯雨林なのでインドネシアの町並みというのはおそらく日本と違った形の雑然とした形になっているのではないでしょうか?熱帯雨林と相似形の町並みということですね。植民地時代の宗主国(ヨーロッパ)の影響を受けて計画的に整然とした町並みもあるかも知れませんがインドネシア人はそこでは落ち着けないのではないでしょうか。日本人が筑波計画都市群の中では落ち着けないように。大阪は東京より南なのでより雑然とした雑木林的町並みになっている。だから日本の多少整理しながらも混沌とした町並みはこれで良いのだと思えるようになりました。雑木林も、雑然とした町並みも見る方向と視野の枠を限定することによって素晴らしい美を発見できます。ひょっとしたら日本は政治も人間関係も雑木林的になっていてそれが日本人には合うのかも知れませんね。そして雑木林的環境では花粉症は無いかも?杉などの単一の樹木で森を作るから花粉症が起きる。西洋的、針葉樹林的整然とした人間関係や組織や思想は日本には危険かも? 西洋的合理主義は精神的不安定さを生み出す。そう、雑然が良いのです。それは私の机の上が雑然としている言い訳かも?
                以上今年の村長さんの初夢ならぬ初思考でした。

 

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